■歴史
●江戸幕府
徳川政権が始まると、家康の二女督姫を妻とする池田輝政が城主に選ばれ、また改築をすることになる。
元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取(鳥取城)へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。1618年(元和4年)には、二代将軍徳川秀忠の子・千姫が桑名城主本多忠政の子・忠刻(ただとき)に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、江戸時代後期には俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。
詳しい内容は下記HPを参考にご覧ください。
世界遺産 姫路城 [ http://www.himeji-castle.gr.jp/ ]
世界遺産 姫路城 [ http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/hyogo/himejijyo/ ]
Wikipedia 姫路城 [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E ]
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